昭和40年03月18日 朝の御理解



 昨夜御祈念が終わってから、控えに入っとりましたら、定男さんが大きな紙袋に入れてからお饅頭を二つ、二袋追分からあの、追分の鉄工所に勤めておりますからね、追分から買うてきたから、先生食べて下さいち言うてから持って来ました。どうしたつのち、あんなふうですから、まあ恥ずかしかごたるふうでその言いませんもん。
 昨日、後片付けしておった人達に、あと片付けがすいましから、皆さんにお茶でも上げてそれを頂いておりましたら、勝彦に、僕は、あの、タバコを今日ぎりで止めたでんで、こんタバコと、ライターと、それからライターに使うガソリン、あの、あればですね、揮発油ですか、缶にとビンとに入っとるのを持って来てから、これはもう、先生あんたが貰うちくれち言うてから持って来とるそうです。
 そしてから、私が、これは想像するわけでございます。ちょうど、前の日の総会にも出席しておりましたが、皆さんも御承知のように、あの人は子供の時に脳膜炎を患いましてですね、もう死ぬるか、まあ、とても生き延びたところでほんとのようにはならないという状態でしたですが。やはり、医者の言うておるとおり現在あんな状態ですけれども。結局それでも、あの子が今、母親を看ていっておりますでえすからねえ。
 いやもうつまらん気の利いた、その息子で親のすねをかじるよりもよっぽどいいですよ。親ちゃ自分で朝ご飯を炊いて、そして帰ってからまた自分で準備して風呂を、その母親が弱いもんですから、あのそれも何もかにも済ましてから、そして必ず夜の御祈念にはお参りをしてくるのです。一番初めに前に座ってから、御理解を頂いておるのですが、分かっておるのか分かっておらないのか、分かりませんけれどもですね、
 とにかく、あの、総会の雰囲気というものに、まあ、触れたんじゃないかとこう思うのです。さあ、記念祭、御造営と、もう一生懸命の話を聞いているうちに、たら、僕もなんなっとこう修行さしてもらわにゃん、せめてタバコなっと止めさせてもろうてから、と言う気持ちがあるらしいんです。昨日、どうでんでも今日から止めちから、「欲しかろ?」ち言うたら、こう一生懸命なふうですね(笑)。
 そしたら、こっち向いてからあたしの方、もの言いませんけれども。とにかく何か知らん、何か知らんけれどもいじらしいような思いでございましたが。皆さん、信心するからには、やっぱり、様々な修行をしております。ね。けれどもです、修行をさして頂くという時に、神様にお願いをするだけの人はありますけれどもね、お饅頭まで添えてという人は少のうございます。少ないとも、ほとんど皆無です。
 特別なお願いをする時には、自分の事の、いわばお願いをする時には、それはお願いはいたしますけれどもね。例え、定男さんの場合です、ね、その事をきっかけに、とにかく、まあ、御届けに、ここにお供えしてくれと言うて持って来たわけじゃないけれども、後で下がりましたらすぐ、「先生、あの、饅頭買うて来たけん食べて下さい」、しかも、大きな袋に酒饅頭を二つですね、二袋買うてきてるんです。
 恐らく自分の心の中に、誓わせて頂いたことを神様にお礼を申し上げると。お願いをする。そういうまあ、細々な気持ちがあったのじゃないだろうかと想像させて頂いて。何か知らん、負うた子に教えられるという気がいたしましたですね。せっかくお互い修行させて頂くのですから、その修行が本当に神様に受けて頂く修行。しかも心嬉しゅうさせて頂く修行。そういう修行に私は実っていかなければならない、成就していかなければならないと思うのです。
 昨夜永瀬さんの奥さんが、十日の月次祭から始めてお礼に出て、毎晩お礼に出て見えるのですけれども。一週間ばかりご無礼しておった。というのは十日の日にお月次祭を奉仕させて頂いた私の姿が、もうあまりにも姿が良くなかった。顔色が悪うなかった悪かった。はあ先生は今日はとっても酷うあんなさるですばいなあと、心で思うたと。先生、お世話をおかけして済みませんと、もうせめて、私共の体で済むことならば。
 まあ分けて頂きたいていうような思いで帰りましたら、もう帰ったその晩から、その具合が悪くて、とうとう休むべく寝付いてしまったという訳なんですね。その間にいろいろ神様がお知らせを、お夢の中に頂きましたけれども。その中にこう言う様なお知らせを頂きましたと。里のほうの御両親の御霊様が、それを頂かれた途中三人の人がですね、ちょっと失念しましたけれどもあの、その金銀財宝なんですね。ね。
 皆がいうところのおかげなんです。そんなのを持って来てやると言う。お父さんとお母さんの御霊様が言われたと、こう言う。次には、こちらのお母さん、お父さんの御霊様がですね、あの、こう、鈴をたくさん、こう、ジャラジャラ鈴ですね、それをいくつもこう、この、固めた鈴を、こう、渡されたところを頂く。親ということは、親神様にも通じることであろう。金光様にも通じることであろう。
 もちろん、先祖御霊ということにも通じることであろう。沢山のおかげを持って来てやろうと、こうしておられる。先日からも、鯨を吊り上げたというような大きな夢を頂いた。そしてその他に、大きな財布があるからそれを拾おうと思うけれども、拾いに行きゃ行くほど深みに入っていくという、頂き損うたところを頂いたて。何か知らん、神様が、特別な働きかけがあってるものを、そのお夢の中から感じる。
 それもやはり、こちらの御霊様が、その、くださったように、やっぱり自分の心の中にです、金の鈴を打ち振るような、喜びを絶えない、絶えない喜びをです、心に感じさして頂くような、そういう信心によって、こういうおかげを受けてくれよいう、私は、神様の願いである事をその中から感じさして頂いたんです。「さあ、お前んところにこげなおかげをやろうと思うとるぞ」とおっしゃったら、今は本気でそれを頂くぞ、という気にならなければならんと。
 それを久留米の石橋先生の「八百俵の徳」という、あのお話をいつも頂かれますように。神様が八百俵の徳を授けて下さろうとするよる。よしなら本気で頂こうと言うて、本格的な修行に入られたという、石橋先生のそのあり方が必要なのですね。ただなら自分の心の中に、その金の鈴を打ち振るうような音色を聞こう、聞こうと言うただけでは聞かれない。そこに私は求められるものは修行であるということなんです。
 今日ある方が御心眼に出ました、その長袴を履いちゃるとですたいね。あのお芝居の時履くでしょう。その長袴がずんだれとるとですもん。それでもう歩きにくうして堪えんちゅうごたるとで、もうそのそれにふみ下がってから、こうしよっちゃる所を頂ます。ね。恐らくその方はまあ大祭前または、いろんな心願があって袴でも履かして頂こうというような修行をしておられるのに違いは御座いませんです。ね。
 ところがそれがもう修行が、その修行がじゅつのうして堪えんちゅうような、そのその為にころばっととしよんなさるような、その修行をただ、私は神様は受けて下さらないと思いますね。本気でさせて頂くならばです、ね。ほんとに修行をさして頂いておることが有り難いと。修行をさして頂いておることが、われとわが心を拝みたいというようなです、心の状態の中に、神様が下さろうとしておられるおかげも頂けれるのじゃないかというふうに思います。ね。
 ですから、まあそれぞれの修行をしておられん方はありますまい。信心が段々分かってくるうちにはせにゃおられんのです。神様が自然の中に求め給うところの修行。また自発的に自分が形の上に、心の上に様々な修行を、まあさして頂くわけで御座いますけれども。それには私はあの定男さんがとられておるようなですね、そういう神様への願いというか、修行さして頂くということに対する喜びというかお礼というかね。
 そういうような、私はいわば、本格的な修行っていうのは、そんなものじゃないだろうか。ただ、先生に申し上げたたっちゃ途中で、挫折するといかんけんで、自分の心の中で、こう、ひそかに修行しよります。そりゃもう必ずもう挫折するごと、もう前からちゃんとあけとるようなもんですね。こげな修行思い立っとりますばってん、成就せんとまたおかしかけんで、つて言ってから自分の心の中でしよります、というような一人があるんですけど、それはもう、成就しないということなんです。すでに。ね。
 ですから、ほんとにお取次ぎでも頂いて、ね。それこそ、その為に、いわば、わざわざのいわばのお供えでもさせて頂いてから、私は修行に入らして頂くというくらいなですね、腰を入れたところの修行が出来なければです、心に金の鈴を打ち振るうような喜び、信心さして頂く喜びだけではなし、修行さして頂く喜び、そういう喜びの心に、私は金銀財宝、お互い幸せになっていく為の必要な、一切のおかげを頂けれるような受け物というのは、そういうところから頂けてくるのじゃなかろうかと、私は思うんです。
   おかげをいただかれました。